hinata’s someday

暗いかもしれないけど、本当のことを。

同じじゃないけど似たような思いをしているどこかの誰かと一緒に。

はじめまして。こんばんは。突然ですが、私は「自死遺族」です。
ここに、その時のことを書いておこうと思い、このためだけにブログを作成しました。


何故急に思い立ったかというと、今日ツイッターにて誰かのそれを読んでしまったから。
全部読むほど元気はなかったけど、読んでいたら、あれ、私いろいろ忘れかけてるな、なんて、
ちょっと思ってしまったわけで。

そう思ったら何だか、淋しいなぁと思ったので忘れないうちに書き起こしておきます。
これは私の為でもあり、同じ自死遺族の方に向けたものでもある。
共感なんてして欲しいわけじゃないけれど、「同じことを経験した」っていう事実を共有出来れば、それだけで何だか落ち着く気がするのです。
私の一方通行かもしれないけど、それでもいいので、書いてみます。

重いだろうし、メンヘラっぽくなるだろうし、そういうのはちょっと…て方は無理せずどうぞ。
物書きでもないし、日本語もろくに使えないから駄文になってしまうだろうけど、
今まで割と意識して考えないようにしてきた分、今日1日だけでも向き合う時間を作りたい。果たして、最後まで書けるかな。

長くなりそうなので、別記事に書きます。

 

 

hiinata.hatenablog.com

 

 

同じじゃないけど似たような思いをしているどこかの誰かと一緒に。

2010年3月5日 朝8時すぎ

 

昨日でちょうど学校での後期が終わり、春休みの1日目だった。
私は2年ずれて定時制の高校2年生をやっていた。
春休みということもあって、私はもとより3つ下の妹もその日は寝坊助だった。

何か耳障りな音がしばらく鳴り続けていて、眠い目を擦りながら唸るように体を起こした。すぐにその音が、電話の音だと分かる。
家の電話はほとんど鳴らなかったので、鳴っていること自体が珍しかった。
眠いせいもあり、暫くすれば止むだろうと再び目を閉じた。けれど、全く鳴り止む気配がなかった。

その異常さに段々恐怖を感じてきて、隣の妹の部屋へ行った。
妹もこの状況に怯えていて、割と仲が良かった私たちは何故だか一緒にベッドに隠れた。今思えば何も解決するわけでもなかったのに、とにかくその時は何が起こっているか理解できず、ただただ怖かったから、電話の音が鳴り止むのを二人で布団の中で待っていた。

30分くらいだろうか。暫くして電話がピタリと止まった。

私たちはビクビクしながら、とりあえず電話のある1階へと降りることにした。
誰もいない。その日は母は既にパートに出かけ、当時高3の弟は(たぶん)学校へ行っていた。
外はとてもいい天気だったのを覚えている。母が毎朝干してくれていた私たちの洗濯物がサンルームでゆらゆらと春風に揺れていた。

「なんだったんだろうね…」と二人でリビングで顔を見合わせた時、また電話が鳴った。
また数分ほど鳴り止まない。ディスプレイに表示されている番号は知らない番号だったから、出ようにも出られなかった。

次に電話が鳴ると、母の携帯からだった。
慌てて、私は電話に出た。

電話口の母の声は、物凄く張り詰めていた。まるで叱られている時のような。
「お父さんが自殺したこと」
「とりあえずかかってきている電話に出ること」
「警察が今から家に来るから服を着替えておくこと」
言われたのはこの3つだった。そしてすぐに電話は切れた。

私はそれを妹に伝えた。この時の記憶は曖昧だ。悲しさよりも驚きの方が大きくて、涙よりも前に混乱して現況を理解できないまま、すぐにかかってくるであろう電話を待った。

その電話は警察からだった。ここもあまり覚えていないけど、「お母さんから話は聞いていますね。事件性の有無を確認したいので、今からお母さんとそちらに向かいます。今家にはどなたがいますか?」といったようなことを言われた気がする。

服を着替え、リビングで妹と椅子に座って待つ。会話は少なかったと思う。
その間40分ほど時間があったと思うけれど、私は呆然としていて頭が回っていなかった。

警察が母と一緒に家に来た。スーツで細身の地味なおじさんだった。
何を聞かれたかは覚えていない。けど、多分大した返答はできなかったと思う。
私たちはここ数年の父のことを、あまり知らなかったからだ。
結局事件性は薄いと判断され、自殺ということになった。数十分ほどで警察は帰って行った。

その後、母は弟と一緒に、現場に行かなければいけなかったようで、また出て行ってしまった。ほぼ状況が分かっていない状態で待つのはしんどかった。
分かっていないから、いつもと変わらない家の空間が感覚を鈍らすような、でも"起こっていること"が、頭の中でぐるぐると駆け回っているような、そんな不思議な気持ちだった。

暫くして母から連絡が入り、妹と私は母と病院へ行くことになった。
病院へ向かう車の中、何を話したかは覚えていない。でも、そうだな、妹と私は泣いていたかもしれない。そこで初めて、母がそばにいることで感情が動き始めたんだと思う。

病院へ着くと、父方の親戚と母方の親戚が数人いた。
父方の親戚は暫く会っていなかったので誰が誰だかも分からなかった。
ただ覚えているのは、誰もまともに涙なんて流していなかった。

看護師さんに促され、父がいる部屋に通される。
ドアを開けると、そこはまだカーテンがかかっていて、その奥にいると言う。
妹はドアの前まで来て、「こわい、無理」と言って廊下の方へ行ってしまった。
私も当然怖かった。人生で死んだ人を見るのは二人目だったけど、父となると恐怖感は別物だった。祖父の時は眠るように死んだから、全然怖くなかったのに。

看護師さんが「亡くなられてすぐ見つかったから、とても綺麗ですよ」と言う。
"綺麗"という言葉を聞いて少し安心した。昔どこかで得た情報で、首吊った遺体は見られたもんじゃないと知っていたからだ。

顔にかけられた布を取ってもらう。母の腕にしがみつきながら、父の顔を見た。
そうしてこの時、私はこれが現実なのだと、自分のたった一人の父親はもういないのだと理解した。

それまで気丈に振舞っていた母もさすがに泣いていた。私と母は、「ふっくらした顔しちゃって」「知らないうちに太ったんじゃないの」「綺麗でよかったね」「ほんと最期まで馬鹿だね」と大泣きしながら言い合った。

部屋を出て、父が死んだ時のことを聞いた。(確か母親から聞かされた気がする)
父が最期に選んだ場所は、自分の働く工事現場だった。
鉄筋か何かに紐だか、縄だか(そういった詳しいことは何も聞かされていない)で首を吊っていたそうだ。
最初に見つけたのは職場の人だった。早いうちに見つかった為、ほぼ生きていた時の綺麗な状態だったということだ。

私の知っている父は、口を開けば言い訳ばっかりしていて、だらしなくて、見栄っ張りで、どうしようもない人だった。最近までの私も似たようなもんだったけれど。

私が15歳の頃には家庭は崩壊寸前だった。原因は父親の借金。
幸い、借金の取り立てが来るようなほどではなかったけれど、父は、母がやりくりして貯金していてくれた私たち兄弟の為のお金まで使い果たしてしまったらしい。
中学生になって、2年ほどの単身赴任から戻ってきた時から徐々に父は変わっていった。
そのうち、父と母の口喧嘩(と言っても母の一方的な責め)は毎日続き、次第に父が家に帰ってくる日が減っていった。

(単身赴任をしていた時に、出張先で酷くいじめられていたという話を後から知った)

その頃の幼い私はずっと父が憎かった。憎くて憎くて、死んで欲しいとまで思っていた。
母をこんなにも苦しませ、正直ちゃんと会社へ行って仕事をしているのかさえ疑っていた。

本当のところは分からないけれど、弟は多分そんな父に心底呆れていたと思う。
妹は小さい時の父親の記憶はほとんどなく、知っているのはそんな情けない父だけだったと後で聞いた。

家族全員で何年も、変わってしまった父を責め続けていた。

変わった、と認識しているのは多分兄弟では私だけだと思う。
私は小さい時に、父と一緒にお風呂に入ったことも、釣りに行った事も、ドライブしたことも覚えている。父に叱られた事もあった。運動会でビデオを撮ってくれたことも、それがブレブレでしかも私と似た髪型の女の子を撮っていたことも。
パソコンやらビデオデッキやらやたら機械を買う割に、使いこなせていなかったこともだ。

父が、父だった時を私はちゃんと覚えている。

それなのに当時は目の前にいるどうしようもないこの人がいなくなることを本気で願っていた。


病院を後にした私と妹は家に戻った。その時、母方の伯母と祖母も一緒だった。
伯母と祖母はとても冷静だったので、私たちも先ほどより落ち着いていられた。
弟も家に帰ってきていたが、弟が一番落ち着いていたと思う。

その日のうちに、通夜、翌日に葬儀が行われた。通夜は祖母、伯母含めた私たちだけだった。ちょっとここら辺はあまり覚えていない。


2010年3月6日

 

葬儀の日。お昼くらいからの予定で、少し疲れていた私たち兄弟は葬儀の始まる1時間ほど前に起きた。着替えて1階へ降りようとした時、何やら騒がしい。
兄弟三人で階段の途中で足を止め、聞き耳を立てた。

「やめて!」

母の声だった。一気に緊張が走り、嫌な予感がしてきた。恐る恐る私たちは下へ降りて行った。

すると階段のすぐ下の少し開けた廊下に父方の親戚たちがゾロゾロと集まっていた。
私たちは一斉に視線を浴びる。嫌な視線だった。

「もう葬儀の時間だぞ!遅いだろ!」
「何してたんだ!!」
「まったくどうかしてる!おじさん(父)が可哀想だ!!」

ほぼ初対面のはずなのに、私たちはいきなりそんな言葉をかけられた。
それは父の姉の子供、つまり従兄弟からの、しかももう30代半ばの人たちから言われたのだ。

その時、妹がつい目を合わせてしまい、その瞬間、
「なんだその目は?!笑ってんのか?!!」と従兄弟の一人に怒鳴られた。

妹はまたそれに「は?」と返してしまったので、余計相手の気に障ってしまい、
周りの人がその従兄弟を止めに入ってなんとかその場は収まった。

慌てて妹を連れ、私は母がいるダイニングへ向かった。
そこに見えたのは、母が父方の親戚数十人に囲まれ、責められている光景だった。
母は泣き崩れ、伯母と伯父が精一杯かばってくれていた。
隣で弟が間に入って場を抑えようとしていた。

私はそれを見た途端、怒りと哀しみで感情がコントロール出来なくなり、
母の元へ駆け寄って、「やめてください!」と叫んだような気がする。

そんな中、葬儀の時間になり、そこで弟が少し声を張って「皆さん、時間ですので」と一言発すると、しーんと静かになった。

葬儀はさっきまでの騒ぎがなかったかのように進んでいった。
だが、後で母から聞いた話では、父の両親、祖父母は葬儀も任せっきりな上に、香典は1万円だった(これが常識の範囲内なのかはわからない)とか、棺桶にお花を入れる時、祖母は嘘泣きをしていたとか。

本当かどうかは私には分からないけれど、母が嘘をつくとも思えず、それを聞いてから、お葬式は人の黒い部分が浮き彫りになるようなイメージが出来上がってしまった。

父方の親戚とは、幼少期までは付き合いがあった。
私が生まれてすぐの頃は、父の実家で同居していたらしい。
だけど、母と祖母の相性が悪く、早々に平屋のアパートへ引っ越した。

それからは年に数えるくらい、それこそ年末年始、お盆くらいに顔を出す程度だった。
その時にはもう、兄弟揃って、父方の祖父母は好きではなかった。
特に理由がはっきりあるわけではなかったが、異常に手を握ろうとしてきたり、
帰り際がしつこかったり、お小遣いをくれる時にも、やたら恩着せがましい言い方をしてきたりしたので、子供ながらに「なんかやだなぁ」と思っていた。

そのうち妹が父の実家に行くのを嫌がり、弟も拒絶するようになり、私と父だけで行くこともあったけれど、私も苦痛になって行くのを拒否した。

会わなくなって、父が借金をしていることを知った時にこの祖父母のことで母から聞いた話がある。

借金に困り、どうしようもない状況の時に、母は父に、
祖父母にお金を貸してほしいと頭を下げてくるよう促したそうだ。
私も一緒に行くからと。
(母は祖父母をかなり毛嫌いしていたので、一緒に行ったというのは私としてはかなり驚いた)

だが、祖父母は鐚一文も貸してくれなかったという。

母はその時、「この人は親にさえ愛されていないのでは」と思ったそうだ。
祖父母はとてつもなく貧乏というわけではなかったし、金遣いが荒いわけでもなさそうだた。だからこそ、余計に私はその話を聞いた時、父が可哀想な人だと思った。けれどこれは同情ではなく、哀れんでいるだけで、憎しみはなくならなかった。


葬儀が終わり、うちの狭い和室で会食をし、火葬場で移動した。
父の入った棺桶が、あの中へ入っていき、そして、灰と崩れた骨だけが目の前に出てきた時、何とも虚しい気持ちになった。人の最期は、こんなものかと。
歩いて、喋って、笑って、生きていた人間が、こんなに小さくなってしまうのかと、涙が止まらなかった。

親戚たちの「意外と顎しっかりしてたんだね」「頭とかそっくりね」そんな言葉を聞き流しながら、私の中はそれでもなお、自分で命を絶った父に対しての怒りで溢れていた。

火葬が終わり、お骨を抱えた母と、私と弟と妹だけで、父の遺影の前に並んだ。
肩を寄せ合って、腕を組み、四人で泣いていた。

「あんたは本当に最期の最期まで馬鹿だよ。情けない!」と母が言うと、
私は嗚咽しながら泣いた。
親戚に聞こえないように小さな声で「とーちゃんの馬鹿野郎」と言った。